苦悩との付き合い方

「苦悩たかきが故に尊からず」
 
太宰治の『二十世紀旗手』(※1)はこのような言葉から始まります。
この言葉は太宰の完全なオリジナルではなく『実語教』(※2)に出てくる「山たかきが故に尊からず」を換骨奪胎したものです。
この言葉には、悩める者の心情を鋭利なナイフでえぐるような切れ味があります。
そう、苦悩することは当人の人間性や知性の高さを意味するものではありません。
私を含めて、悩める人間の心には、自分の苦悩が崇高な精神の表象であるとか、他者とは異なる自分の物語の結果だとみなすバイアスがあるのではないでしょうか。
私は、自分の苦悩が同世代人にある程度共通なものだと理解した時に、大分気が楽になったのと同時に得体の知れない喪失感を覚えました。
でも、苦悩と距離をおけるのならばそれでいいのだと思います。
私なりにたどり着いた苦悩との付き合い方を、言葉にしてみたいと思います。
 

苦悩を道具にしすぎないこと

苦悩は道具になります。
まず、同種の苦悩を抱える者と距離を近づけるといった穏当な使い方が出来ます。
一方で、嫌悪や苦痛を感じるものを遠ざけるための理由づけとしても使われます。
特に後者の場合、自分の本音はただ楽になりたいということなのに、自分の権威や自尊心を守るために苦悩を一義的な理由として表象することで、いつしかそれが本音の理由になってしまうことがあります。
自分の苦悩に酔い、それに支配されてしまうのです。
 
私は、人間の人格形成や社会的な成功について、家庭環境や生育環境は相応に関係があると考えています。
人間の初期条件は、運、能力、環境を割り振る不幸のくじ引きで決まっているのだと思います。
ただ、それでいて、アドラーの哲学における原因論の否定とトラウマの否定もまた、真実であると考えます。
傷付かないように、自尊心を損なわないように、私たちは自分の持つ不幸な物語や苦悩を、盾として武器として使うことがあるのです。
これは、外界からの刺激から自分を守るのと同時に、苦悩による支配を強化するという諸刃の剣になり得ます。
苦悩を道具にすることは出来るなら控えた方が良いし、頼る場合も意識的に用いたほうが良いと思います。
 

金で解決する程度の悩み

白状すると、私の抱える悩みは、だいたいお金で解決することが出来ます。
人間不信、アダルトチャイルド、アルコール依存、HSP、いろんな切り口に救われましたが、結局のところ、私の苦悩は『労働苦』と『家族苦』です。
労働から解放されたいという願いは、一生の衣食住と娯楽を充足するだけの金銭があれば叶います。
家族から解放されたいという願いは、他人に面倒を見させるだけの金銭があれば叶います。
結局、十分な資産があれば解決できることに、金が無いから向き合わざるを得ないというだけなのです。
 

悩んで掘り下げて考えてシンプルに

堀江貴文さんが著書の『ゼロ』で「悩むことはものごとを複雑にすること。考えることはものごとをシンプルにすること。」というようなことを書いていました。
これはとても腑に落ちました。
悩むことと考えることは多分似ているようで異なるのでしょう。
苦悩の肩を持ちすぎるかもしれませんが、悩むことはブレーン・ストーミングなのだと思います。
ああでもない、こうでもないとぐるぐると考えを巡らせていく中で、原因や失敗が沢山思い浮かびます。
そのままでは材料がどんどんとっ散らかってしまうのですが、ここで思い浮かんだ材料は「じゃあ次はどうしようか」と考える時に役に立ちます。
少なくとも、ひとつづつ検討していけば、なんとなく進むべき方向性が見えてきます。
この悩みの枝葉を一つづつ検討して剪定していくことが考えるということなのかもしれないです。
 
 

細かい補足

※1.二十世紀旗手は、太宰が27,28くらいのころの作品。長いこと睡眠薬中毒でラリラリしてたころの作品だと思っていたのですが、新潮文庫の奥野健男氏の解説によると、このころにはもう錯乱は無くなっていたようです。確信犯的に書かれた支離滅裂な文章ということになります。
※2.実語教というのは、平安初期から江戸時代にかけて流布した児童教訓書。48の五言絶句からなり、寺子屋の教科書として使われていたようです。「山たかきが故に尊からず」は「樹あるを以て尊しとなす」と続きます。外見ではなく内面が大切だという、時代を経ても変わらない我々の欠陥に対しる警句です。

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