因果関係の奴隷が健全な責任転嫁を行うことの難しさ

ここ1年くらい「健全な他者転嫁」というテーマを考えています。
通勤も賃労働も人付き合いも好きになれない不適合者として、私は自分はだめなやつだと思っています。
その一方で、それとて全部が自分の責任じゃないよなぁと他責的に考えています。
特に「家族」と「会社」はずっと悩みの種でした(「家族」は今でも)。
 
ニュートラルに言うと、自分が負った不具合の一部を転嫁できるからこそ、私たちは生きていけるのだと考えています。
家族や青年期までに出会った人の人間性とか、スタート時点での資産状況とか、人生の条件の多くがくじ引きで決まります。
そこに原因の一部を求めるのは自然だと思います。
その一方で、なんでもかんでも外部に転嫁するのもNGです。
責任の所在を全部外出ししてしまうと、状況の改善のために自分で出来ることが無くなってしまいます。
それも地獄です。
旧ブログ:生まれてこなければよかった その3
 
健全な他者転嫁の難しさについて書きます。
 
 

脳の適応環境と分業する社会

生物としての人間は、最大で50人くらいまでの血縁集団(バンド)で生活していた時代に最適化されていると言われています。
全員の顔が把握できる集団で狩猟採集生活をしていた時代です。
そのため、私たちは無意識のうちに、他人からの評価を求め、集団内の人間関係に注目するように出来ています。
芸能人のゴシップについ注目してしまうのは、芸能人の顔はよく見るので、自分の集団の内部の人間だと誤認するからです。
集団内の人間のゴシップを知っておくことは狩猟採集生活においても現代においてもメリットでしょう。
旧ブログ:僕らは種としても個としてもズレている
 
 
 
一方で、今日の私たちが生きる世界は、高度な分業の上に成り立っています。
砂糖・塩・小麦粉がキロ200円、セーターが2000円で手に入るのは分業の果実です。
分業に頼らず一人でこれらの物をそろえようとすると、気が遠くなりそうな時間がかかります。
このような分業の果実を放棄した生活を、私たちはあまり現実的な選択肢として考えません。
ソローの『森の生活』は好きな作品ですが、彼も小屋の材料はお金で買っているし、湖畔の小屋に住んでいたの2年です。
 
人間関係に思い悩むように出来ているにも関わらず、私たちの多くはそこから自由になる術がありません。
(現代の世捨て人の多くは、人間関係を遮断しつつ金銭を得る方法を確立し、分業の果実にフリーライドすることでサバイブする戦略を取っています。これはとても憧れるモデルなのですが、今回は深入りしません。)
 

因果関係の奴隷

人間の認知に関する研究では、私達の脳は因果関係を見出すことに情熱を燃やすわりにその精度が低いことが分かっています。
良い方を挙げると、因果関係を類推するための基本的なツールは、最初から私達の脳に組み込まれています。
1才児であってもニュートン力学(例えば一度動き出した車の玩具は何かに止められない限り慣性で動き続けること)を直感的に理解します。
悪い方を挙げると、そのツールは結構癖があって、間違った挙動をしやすいです。
ダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーは私達の脳が取りやすい間違った挙動を「ヒューリスティックとバイアス」と呼んで研究しました。
・航空機事故は悲惨な映像で伝えられるので、自動車よりも飛行機の方が危険に感じる(利用可能性ヒューリスティック)
・内気な眼鏡女子は大学でビジネスよりもフランス文学を学んでいそうに見える(※経営学部と文学部フランス文学科では前者の女子学生数が方が多いのに)(代表性ヒューリスティック)
・選挙もスポーツの試合も金融危機も、後付であれば専門知識が無い人でもそれっぽい説明が出来てしまう(後知恵バイアス)
いずれもあるあるな事例だと思います。
 
 

つながっているけれど因果関係はない

人間関係に敏感な私たちは、分業の糸で因果関係が絡み合った世界に生きています。
そうすると、因果関係の奴隷のような私達は、誰かの行動と誰かの境遇、誰かの得と誰かの損を結びつけて考えます。
自分より幸せな人間がいるせいで、自分が不幸だと思うことがあります。
金持ちがいるせいで自分が貧乏なのだと思うことがあります。
こういった関係は、どこかで繋がっているかもしれませんが、因果関係はありません。
 
僕たちの因果関係類推マシーンはすごく癖が強いことは「健全な他者転嫁」を考える上でも覚えておきたいと考えています。

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