家族が辛いのに家族愛の物語に涙するのは

 
重松清さんの「とんび」を読みました。
結構前に読んだ堀江貴文さんの「ゼロ」に、刑務所で「とんび」をむせび泣きながら読んだと書いてあったので気になっていました。
「ゼロ」を読むと書いてあるんですが、ホリエモンは結構親に対して複雑な感情を持っている人です。
毒親とまでは行かないけれど難しい人だったみたいで、私は「ゼロ」は結構共感しながら読みました。
 
 
さて「とんび」の話なんですが、これは事故で母親を亡くし、父一人息子一人となった家庭を描いた物語です。
主人公のヤスさんと息子のアキラさんと、それを支える地域の人々が主要な登場人物です。
アキラさんが生まれた昭和37年から始まってアキラさんが20代後半になるまでの話なので、時代としては昭和の後半から平成の始まりくらいまでの話です。
1年くらい本棚の肥やしにしていたのですが、先日思い立って読み始めたら、僕もボロボロ泣きながら一気に読んでしまいました。
ベローチェの端っこの席でペーパータオルで涙を拭いながら読んでいたのでちょっとした不審人物ですね(笑)。
レビューは山のようにあるので詳しくは書きませんが、ヤスさんの不器用な優しさと、アキラさんがその愛情を分かっていてヤスさんに気を使いながらも、就職などで自分の信じる道を進むところに感動しました。
 

家族が辛いのに家族愛の物語に涙するのは

ここからが本題です。
僕の育った家庭はそれなりに機能不全な家庭だったので、僕は今でも自分の実家が苦手です。
大学進学を機に家から出ることには成功したのですが、その後も家族がトラブルを起こさないか心配だったし、家族内の問題のある人間の面倒を見ている母に後ろめたさを感じ続けていました。
家族のような閉じられた狭いコミュニティの駄目なところは、問題人物が一人でもいると、構成員がみんな疲弊していしまい、それでいて成員の異動が困難なことです。
友情や貨幣による繋がりであれば、問題人物を排除することが出来ます。家族から成員を排除するには、明らかなDVがある場合のような高いハードルが必要です。
面白いことに、そんな私でも家族愛の物語である「とんび」に涙したのです。
 
私見ですが、僕らの頭の中には、親と子の関係に敏感に反応するモジュールが組み込まれているのだろうと思います。
ヒトの子供は他の生物と比べて非常に手がかかります。
人間の赤ん坊は、二足歩行を行うので産道を広げられないという事情と、大きな脳を格納する頭蓋骨が必要だという問題をクリアするために、親の庇護が長時間必要な未発達の段階で生まれます。
親からすれば、子育てに大きなリソースを投下するので子供のことをケアするようになりますし、子供からしても長期間親からの愛情を得られるような振る舞いをするようになります。
この長い子育て(子供からすれば成長)の期間を乗り切るために、僕たちには「親子愛」を敏感に感じ取る仕組みが組み込まれているのかもしれません。
ちなみにスティーブン・ピンカーの著書だと、進化心理学における家族観では、親と子の関係は単純なケアする/ケアされるの関係よりも複雑だと書かれています。
例えば、子供が産まれた時に、親はその子供にリソースを投下するだけの価値があるかというシビアな判断を行います
子供と親が共有している遺伝子は50%なので、これから親自身が生殖活動をするのと子供を養育することのどちらが遺伝子にとって有利かという判断の繰り返しの果てに僕たちは存在しています。
残酷な話ですが、ハイハイすらできない赤ん坊が、親の呼びかけや表情の変化に反応するのは、正常な発達をしていることを示して、自分には資源を投下して育てるだけの価値があると主張するためです。
また、複数の子供がいる場合、親はどちらの子供にリソースを投下するかという意思決定が求められます。
通常であれば、同じ資源を投下するのであれば年少の子供にした方が限界的な効率が高くなります。その一方で、2人の子供のうちどちらかを犠牲にしなければならないとすると、すでに沢山のリソースを投下した年長の子供を生かす方が得策です。
私達は、こういった複雑な駆け引きの果てに獲得した親子感情センサーを持っているのかもしれません。
 
 

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