人を愛しても良かったんだと気がついた

 
僕は良い大学に進学しても、働いてそれなりに稼げるようになっても、一貫して自己評価が低かった。
自分は有能だという自信があるが、それと同時にとても「気持ちが悪い存在」だと思っていた。
認知療法の本を読むと、「自己評価の低下」はうつ状態の人に典型的な認知の歪みだという。自分のことを無価値に感じる自分は生きていてもしょうがない自分が嫌いだそのように考えてしまうという。どういうわけか、私はあまりこういう感じ方はしない。死にたいと思うことはあ
また、自分の好意は相手にとっては迷惑極まりないものだろうという感覚がある。
自分に愛された人間は災難で不幸なのだろうと。
自分は自分の愛する人から愛されないという確信がある。自分の好意は自分の愛する人から見れば気持ちの悪いものであるという確信がある。自己評価が低いため、自分の愛や献身には便所紙ほどの価値もないと考えている。負けぬよう、死なぬよう、食らいつき、研鑽し、それなり
10代の時は口説いて付き合えた人もいたが、20代になるとそれが難しくなった。
自分の好意を伝えるのは相手に迷惑をかけることだ
気持ちの悪い自分から好かれることは相手の人生の汚点なのだ
そんな考えから「欲しい」「好きだ」「抱きたい」といった言葉をかけられなくなった。
 
先日「『生きづらさ』を手放す」(室城隆之、春秋社)という本を読んだ。
著者は家庭裁判所調査官を長年経験した後、今は大学で教鞭を取っている心理学者だ。
幼少期の自分が生きていく中で無意識に採用していた「脚本」を検討し、それが生き難さの原因になっているのであれば、新しい生き方を「再決断」するという心理療法(再決断療法)について書かれている。 

「生きづらさ」を手放す: 自分らしさを取り戻す再決断療法

ここらへんは、アルコール依存症治療の本で読んだ原家族にあった「ルール」を再検討するワークと似ている。
知らない言葉であっても既知の情報から意味を類推できる能力は、人間の持つ優れた能力の一つだ。だが、類推は時に誤解を生み、その誤解が修正されること無く、間違った情報として認識されてしまうことがある。「情けは人のためならず」が情けをかけるとその人のためになら
 

「愛するな」という脚本

僕の家は祖母が邪悪な人で、自分の責任を棚に上げて家族の他の者を責めることが多かった。
立場上犠牲になりやすかったのが母親だった。
僕はそれが辛かったので、母親を庇うような行動をしたのだが、そうすると祖母は余計に辛く母にあたった。
僕は愛する人に幸せになってほしいのだけど、そのために僕が行動するともっと不幸になるというジレンマに直面した。
そこで僕は、
自分が愛するとその人は不幸になる
自分の愛とそれによる行動は向けられた相手には迷惑なものだ
ということを学んだのだと思う。
僕が学んだのは「愛するな」というルールだったのだ。
これは、被害妄想、加害妄想、距離の取り方、頼み事が苦手、自責思考、結構いろいろなことに繋がっているように思う。
僕は人を愛しても良いのだということに、遅くなったがやっと気がついた。
 

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする