灰色の労働観と漂流(転職)

前回の「金があるから働きたくない」とは異なるが、労働に関する話を紹介したい。
 

沢木耕太郎の「灰色砂漠の漂流者たち」

ノンフィクション作家の沢木耕太郎の初期の作品に「灰色砂漠の漂流者たち」という短編がある。
文春文庫の「地の漂流者たち」という文庫本と、同じく文藝春秋から出ている沢木耕太郎ノンフィクション(全集)の第三巻「時の廃墟」に収録されている。

 

新刊の在庫は薄そうだが、アマゾンのマーケットプレイスに出品者が結構いるので、入手するのは難しくないと思う。
(「テロルの決算」や「深夜特急」のようなメジャーなタイトルだけでなく、紙媒体では商売にならなそうなこういう作品こそ電子書籍で売って欲しいと思う。)
 
同作は、沢木が横浜国大を卒業して就職した富士銀行を一日で辞め、ノンフィクション作家として活動を初めて間もなくのものだ。
1970年代初期の、川崎の若い労働者達へのインタビューを通して書かれている。
そこでは、集団就職で川崎の工場に入った若い労働者が、不満、焦燥、自己実現、あるいは「なんとなく」といった様々な思いから転職したり無職になる様子が書かれている。
 

灰色の労働観

僕が初めてこれを読んだのは学生の頃だったが、当時は「日本がまだガツガツしていたころの喧騒と悲哀」を感じさせる作品だなぁ、という以上の感想は持たなかった。
だが、自分も働くようになると、本書で多くの労働者が語る「灰色の労働観」とでも呼ぶべき、仕事や職場への嫌悪感に同意するようになった。
おそらくこれは、苦役列車の北町貫多にはあって、エリック・ホッファーには無いものだ。
 
「灰色の労働観」の背景には、
「採用時の話と事実が異なる」
「労働条件がキツい」
「給料への不満」
「将来への不安」
「やりがいへの渇望」
などがある。
二交代制・三交代制への不満のように、現代のオフィスワーカーには当てはまらない項目もあるが、上に挙げた5つは現代の労働者に共通するのではないだろうか。
 
改めて読み返すと、作中には「もともとは希望を持っていたが、働くうちに灰色の労働観に取り憑かれてしまったのではないか」と思わせる人々が出てくる。
 
一人は、沢木がデビュー作の「防人のブルース」(自衛官へのインタビューを通して書かれた作品)の執筆時に出会った若い二等陸士。
「生きがいという言葉から何を連想しますか?」という問いに「憂国・・・憂国ですかね。」と答えた彼を、沢木は「山口二矢の弟のような少年」と評する。
その自衛官が、自衛隊を除隊し川崎の半導体メーカーに就職したという。
しかし、沢木が連絡を取ろうとしたところ、彼はその半導体メーカーを半年で辞め、転職先の鉄工所も1ヶ月で辞めていた。
自衛官時代の彼の印象からは想像できない短期離職の繰り返しに驚いた沢木が、川崎の街をほっつき歩くところから「灰色砂漠の漂流者たち」は始まる。
 
もう一人は、岩手出身の若い工員の蔵石くん。
彼は、小学校・中学校と皆勤賞だった。
だが、会社に入ると「ズル休み」をするようになったという。
(時代が時代なのでそうでもしなければ有給が取りにくかったのだと推察する。)
初めは恥ずかしく感じていたものの、次第に当然の権利だと思うようになった。
そして「仕事って、なんとなくイヤなものだから・・・。」とつぶやく。
 

砂漠をさすらうか、今いるところをオアシスだと思うか

作中に登場する労働者達と同世代の沢木の視点は、おおむね彼らに共感的なものだ。
だが、若い労働者の中には、「現状の不満」と「将来への不安」を払拭するために転職するのではなく、現在いる場所と折り合いをつけて生きている者いることを指摘し、少し警句じみたことを言っている。
沢木は、短期間で職を転々とする若い労働者たちを、カナンの地(約束の地)を求めて「砂漠をさすらう漂流者」になぞらえる。
そして、約束の地を求めて砂漠をさすらう人がいる一方で、自分のいる場所をオアシスだと考えて憩う人もいるという。
例えば、「今いる場所をオアシスだと思い定めて、必死にピラミッドを登ろうとする人」
現在の会社での出世や技能の向上のために努力する人間がこれだ。
また、カナンを求めず、ピラミッドを登ることもせず、小さなオアシスに憩う「おとなしい羊」もいるという。
雇用が保証されている状況をよしとし、多くを望まず、現状に折り合いをつける人々がこれだろう。
 
砂漠の漂流者と、ピラミッドを登る人と、おとなしい羊
どれが最適かは分からないが、一つ確かだと思うのは、どの生き方であってもその過程を肯定することが重要なのだと思う。
漂流の末にカナンが見つからずに行き倒れることがあっても、その過程を肯定することが漂流者には必要なのだろう。