被害者として有利に立ち回ることと、その限界

今年の初めにデヴィッド・グレーバーの『負債論』にからめて「貸し借りがあると人間関係が継続しやすい」ということを取り上げた。
関係を継続したい相手であれば貸し借りがあっても問題ないが、関係を継続したくない相手には、貸し借り(特に借り)を作らない方が良い。
他人に借りを作るのがずっと苦手でした。 仕事でもプライベートでも、誰かに借りを作ることを恐れていました。 他人に要望を伝えなければいけな...
最近は、「人間は被害者であることが有利に働く場面では、被害者として関係を継続したがる」というテーマをよく考える。
例えば戦争責任。
戦時の事件の被害者に官民で基金を設置して賠償する仕組みが取られたが、それを不服とした一部の活動家が賠償を受けた被害者を徹底的に非難した結果、賠償を受けることを断念する被害者が続出したという話がある(従軍慰安婦とアジア女性基金)。
「貸し」を作った立場で被害者として振る舞いたい人間は、貸し借りの清算を嫌がるのだ。
(上で挙げた問題はさらに、被害者サイドであることを有利に活用したい人と実際に被害を受けた人が異なるという醜悪な構図を持っている。)
 
1.自分が有利な立場に立つため、または、直接的・間接的に利益(金銭、権力、感情的な満足等)を得るために、自身を被害者サイドに置く
2.被害の賠償による清算を許さず、ずっと被害者であり続けようとする
この2点を満たした立ち振る舞いを「永遠の被害者」と呼ぼうと思う。
 
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感情と「貸し借り」

さて、「貸し借り」の原因は物理的・金銭的な恩恵だけでなく、「感情」がたびたび持ち出される。
「お前のせいで自分はこんなに嫌な思いをした」という材料を使って、他人を自分の思うように操作しようとする。
家族や交友関係にこういった論法を好む人がいると、他のメンバーはたまらない。
邪険に扱うと今度はその態度を「貸し」として主張するので、話がいつまでも終わらない。
米国の精神科医スコット・ペックの書いた「平気でうそをつく人たちー虚偽と邪悪の心理学」(草思社)を読んでいる。罪悪感や自責の念に耐えること...
 
一方で、SNSではこういう論法を用いる人がやり過ぎた場合「嫌な思いをしたというだけで、他人の行動や思想の自由を制約しようとするのは傲慢だ」という反撃を受けることもある。
顔が見えない相手の「感情」には必要以上に配慮する必要が無いということと、継続が必須ではない人間関係では「貸し借り」はそこまで重要視されないということなのだと思う。
 

属性と「貸し借り」

また、属性によって「貸し借り」を擬制するような場合もある。
例えば
  • 労働者資本家に搾取されている」
  • に隷属を強いられている」
  • 老人若者から社会保障の名のもとに富を奪っている」
といったものだ。
そして、実際に属性の間の「貸し借り」の感覚が、不平等を是正する原動力になることもある。
 
ただし、属性と「貸し借り」には気をつけないといけない点がある。
人間は利得よりも損害に敏感なので、自分の持っている属性を漠然と眺めていると、バランスを欠いた感情を引き起こす。
つまり、自分が持つ抑圧されている(貸しがある)属性にフォーカスして、自分が社会の被害者だという気持ちになってしまう
我々はこの時代に日本に生きているというだけで、富と社会インフラにおいては世界の多くの人達よりも有利な「属性」を持っているにも関わらず、それを世界に対する「借り」だという感覚は意識しないと出てこない。
僕たちは「公平」という価値観をとても大切にする。 初等教育から「友人に差別的な取扱をしてはいけない」と教えられる。 近現代史をちゃんと学...
 
そういた意味で、僕たちが属性を介して感じる不平等(貸し借り)の感覚は、被抑圧(貸し)の方がビビッドに写っているということは心に留めておいても良いと思う。

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永遠の被害者と幸福

僕がここ数年一貫して考えているのが、健全な他者転嫁というテーマだ。
生きづらさを抱えている人は、その一部を、生まれ育ちや、社会の構造、人間の心の特性といったものに引き受けてもらって、身軽になるべきだ
臨床心理学、進化生物学、脳科学、社会思想、いろいろな知識が、あなたの生き辛さを少しずつ引き受けてくれるだろ。
うつで休んでる間に自分の生き難さの原因とその対処について考えていました。もう少し増やすつもりです。<タイトルをクリックすると個別の記事にジャンプします。>◯『生きるのがつらい』療養論1 うちなるカウンセラーを持つために生き難さへの対処として、私は「健
 
ただ、他者転嫁をやり過ぎると、自分の全ての不幸が自分以外の何かのせいになり、自分を無力で改善の余地のない被抑圧者にしてしまう。
自分自身にも改善の余地を残すさじ加減が、健全な他者転嫁には必要なのだと考えている。
これまで「生まれてこなければよかった」というテーマで2つ記事を書いた。生まれてこなければよかった生まれてこなければよかった その2 反出生主義この2つは、当ブログの中でも検索エンジンから見に来ていただく方が多い記事だ。こんな過疎ブログでも、「生まれてこなけ
 
本稿で述べた「永遠の被害者」は他者転嫁のやり過ぎと似ている。
よほど確信犯的に被害者の側に回らない限り、自分が本当に不幸な被害者であるという感覚にとらわれてしまう。
ときには、自分の感情や属性を「貸し」として交渉の材料にしても良いが、それに頼りすぎると、道具にしたはずの感情や属性にとらわれ、自分を不幸な被抑圧者だとみなすようになってしまう。
永遠の被害者でありながら幸福な人間でいられるほど、人間の心は器用ではないと思う。
 
他人が永遠の被害者として振る舞うのを見たら、その手品に騙されぬように。
そして、自分は永遠の被害者にならぬように。
そういう方針で行こうと思う。
 

○○○

 
 
冒頭で紹介した文化人類学者のデビッド・クレーバーの本。
「靴を作る太郎さんと槍を作る次郎さんと。2人の間の交換は、たまたま次郎さんが靴が欲しくて太郎さんも槍が欲しい時しか交換が行われない。貨幣を導入することで、2人のニーズが合致しないときでも貨幣を介して交換が成り立つようになる。」
という昔の経済学の教科書に出てくる物々交換の神話に対して「そんなん嘘っぱちや!」とツッコミを入れるところから始まる。

実際には貨幣の流通よりもずっとはやく、「信用」(掛け)によって同じ集団内では取引がなされていたのだ。
次郎さんが靴が欲しかったら太郎さんから掛けで譲ってもらって、次郎さんは太郎さんが必要になったときに借りを返せばいいのだということ。
高くて電話帳みたいに分厚い本ですが、「貨幣」「信用(クレジット)」の発展という面白いテーマを扱っています。
 
 
本稿でも例として挙げたアジア女性基金の話は恥ずかしながらこの本を読むまで詳しくしりませんでした。
リベラルがうさんくさいのは「ダブルスタンダード」が透けて見えるからと言うのが本書の指摘です。
最近文庫になったようなのでそちらのリンクを張ります。