フーミンとゲロシャブの二択でフーミンを選んできた人たちへ

人生は、決断の連続だ。
作為と不作為を合わせると、人間は日々、多くの決断をしている。
たとえドラマチックでなくても、僕たちの人生は多くの決断のもとに成り立っている。
 
だが、決断の土台となる選択肢は、人によって異なる
一流私大に受かれば喜んで学費を出す親を持った人がいれば、教育にさほど金をかけられない親を持った人がいる。
都市部で生まれ育つか田舎に生まれたかで、20歳になるまでに見える景色は大きく異なる。
僕たちは、ただ目の前にある選択肢について決断するだけだ。
大人になれば、選ぶことが出来る選択肢は増えるが、皆に等しく同じ選択肢が与えられることはない。
 
マシーンにランダムに言葉を生成させ続ければ、いつの日にか「カラマーゾフの兄弟」が書けるかもしれない。
(こんにちは、機械仕掛けのドストエフスキイ)
だが、おそらく人生は異なる。
選択肢が異なるからこそ人間の生はその人のオリジナルになるが、オリジナルの人生に満足できる人ばかりではない。
 

フーミンとげろしゃぶ

20年以上前に、うすた京介が少年ジャンプに連載していた「セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん」というギャグ漫画がある。
転校生の藤山起目粒(ふじやま おこめつぶ)が転入先の学校で、花中島マサルという風変わりな男と出会うところから物語が始まる。
(こう書くとちょっと重厚。)
出会った初日に、マサルは藤山のニックネームを本人に選ばせる。
ご存知の方も多いだろう。
『「げろしゃぶ」か・・・、「フーミン」だな・・・!』
もちろん藤山は「フーミン」を選ぶ。
フーミンがそれほど気に入らなくても、ゲロシャブよりはましだろう。
 
マンガの中だけではない。
漫才コンビの「浅草キッド」の玉袋筋太郎も、ビートたけしから芸名について同じような二者択一を迫られたことがあるという。
『「玉袋筋太郎」か・・・、「蟻の門渡り哲也」・・・!』
玉袋筋太郎もたいがいだが、蟻の門渡りの方が肛門に近い分イメージが悪い。
結局、玉袋筋太郎を選んだが、それでも一部のメディアではそのままの芸名は名乗れず、「玉ちゃん」という呼称を使うことになる。
 
人生の選択肢も然りである。
ベストな、本当に心が踊るような選択肢が与えられることは少ない。
現実的に可能な選択から、少しでもマシな方を。
快が感じられ、苦しくなく、周囲から蔑まれず、受け入れられるようなもの。
少しでもエッジがある方を選んできた。
不自由な選択肢の中から、比較的ましな「フーミン」を僕たちは選んできたのだ。
 

自分の人生に対する距離

以前に、僕の人生観に基づいた「ポジショントーク不幸のくじ引き」という記事を書いた。
人間の世界を動かす力学について考えて参りました。 この世界の言説は、ネットでもリアルでも、マウンティングや煽りが多く見られます。 匿名の...
人間は、たまたまくじ引きで割り振られた要因から影響を受ける。
家族、人間関係、能力、美徳。
幸福な偶然で獲得したものもあれば、不幸な偶然で負ってしまったものもあるだろう。
そうした諸々の属性から作られた「自分」を拡張するために人生を費やすのが人間だ。
自分の持つ属性が有利になるような理屈で武装し、他社に対して「自分の持つ属性は素晴らしいものだ」と誇る。
 
「人生は一度きり」
「人間にはなんでもできる能力がある」
「自己責任」
「人生を浪費するな」
こうした言説は、人間に希望と楽しみを与えてくれる。
希望に向かって行動しているときは幸せだし、それが結果に結びつくのはこの上ない快楽だ。
 
だが、人生というのは本当にそれほど大したものなのだろうか。
僕たちが拡張する土台として持っている属性は、たまたま手に入れたものがほとんどだ。
眼の前に「フーミン」と「げろしゃぶ」という選択肢があったからフーミンを選んできたに過ぎない。
自分の人生には大した価値がないと考えることで、葛藤や焦燥から開放され楽になれるならば、それで良いのではないか。
自分の持つ属性の多くは、くじ引きで割り当てられたもので、それに必要以上に肩入れして疲れる必要は無いのではないか。
(僕自身は、自分を形成している属性を自分と切り離すのが苦手だ。切り離して考えられるようになりたいとずっと思っている。)
フーミンとげろしゃぶの二択は、自分の人生に対する距離のとり方を教えてくれるような気がする。