Twitterの有名人「白饅頭」こと御田寺圭氏の著書「矛盾社会序説」(イースト・プレス)を読んだ。
就職氷河期世代の非正規雇用者や容姿が劣る者といった「かわいそうに見えない弱者」(大きくて黒い犬)を切り捨てることで現代の「自由」で「平等」な社会が成り立っているという矛盾を、様々なエピソードを交えて論じている面白い本だった。
その中の一遍に「お気持ち自警団」を取り扱ったものがある。
本書では以下のような人や行為そのものを、お気持ち自警団と呼んでいる。
傷ついている当人ではなく、傷つくかもしれない誰かを想定・考慮して、その表現を過度にバッシングする人びと
「傷つく人がいるかもしれないという言明をある種の旗印にして、法や人びとの規範意識がなかなかリーチしない、社会的不正義(とみなしたもの)に制裁を加える
具体例として
・「女性差別・女性蔑視である」という抗議を受けてF1のグリッドガールが廃止になったこと(これにより現職のグリッドガールは職と自己表現の場を失うことになる)
・Twitterでマイノリティに批判的な内容の発言はなんでも「ヘイトスピーチ」として問題にしようとする人びとの存在
などが挙げられている。
著者はこの現象について
「被害に対する閾値(傷つく・傷つかない)」には個人差が大きいとし、
差別反対等の社会的正義を伴った自警行為は表現の自由を制限し、ファシズムの土壌となる可能性があると警鐘を鳴らしている。
僕も概ね著者の味方に賛成だ。
個人の痛みや不快感を材料にして他人を支配しようというのは、当ブログで折に触れて述べている「感情を道具に使った論法」であると思う。これは周りの人間を不幸にするし、当人もその感情にいつまでも囚われる。
また、「正義」を振りかざして不届き者に制裁を加えることに快楽を感じるという人間の攻撃性も原因だと考えている。(特に報復を受けにくい匿名の場ではエスカレートしやすい。)
ただ、それと同時に、お気持ち自警団の背景には「痛みに対する敏感さ」と「殴られた経験」もあると思う。
どちらも望んで手に入れたわけではないにも関わらず生き難さを与える「ハズレくじ」だ。
同じようなハズレくじを持った人間として、僕は敏感さと殴られた経験には寄り添いたいとも考えている。
「痛みに対する敏感さ」と「殴られた経験」
様々な「言葉」や「状況」に対して、痛みを感じるか感じないかを隔てる壁が、人間の間にはある。これを「痛みの個体差」と呼びたい。そして、痛みの個体差は、生得的な要因と経験の両方から影響を受けるというのが私の見立てだ。
生得的な要因について考えると、外界に対する「敏感さ」には個人差がある。
デンマークの心理療法士であるイルセ・サンの著書「鈍感な世界に生きる敏感な人たち」(邦訳:枇谷玲子、出版:ディスカヴァー・トゥエンティワン)などがきっかけでHSP(Highly Sensitive Person)という言葉が多くの人に知られるようになった。
「敏感さ」に差があるのは音や光のような刺激だけでなく、他人の感情に対する敏感さ、すなわち共感力にも個体差がある。共感力の高さは人間関係にプラスに働くこともあれば、他人の感情に振り回されやすいというマイナスの側面もある。
HSPは基本的に生得的な気質であり、5人に1人がHSPだと言われている。多数派であるエネルギッシュで鈍感な人間のためにできているこの世界では、HSPは行き難さを感じやすいという。
次に経験が与える影響を考えよう。
皆様は、容姿に対する批判と行為・能力に対する罵倒ではどちらが嫌だろうか?
(どちらも嫌だけどネ。)
「ブサイク」「デブ」「ハゲ」「臭い」「目が細い」「チビ」
「やる気がない」「無能」「なんで出来ないの」「全然センスがない」
おそらく、自分が経験したことがある事項により敏感だと思う。
(または、諦観や悟りに行き着き、こだわることをやめた人もいるだろう。)
そしてこれは容姿や能力だけでなく、性別、出生地、教育、社会的地位など様々な属性についても当てはまる。
誰しも自分が持っている属性について被害を被った経験には敏感だ。
自分の属性を殴られた経験があるかによって、痛みの感じ方には差が出る。
「敏感さ」を強く持って生まれた。
自分の持つ属性を殴られた経験がある。
それゆえ、この世界にある様々な痛みに反応してしまう。
こうした経緯で自警行為を行う人がいるとしたら、同類として僕はその人達の抱える生き難さには敬意を持ちたいのだ。
そのうえで、自分の痛みや不快感で他人を支配しようとする「感情を道具に使った論法」は、周囲の人間を不幸にし、自分もそれに囚われると、やはり僕は言いたい。
殴られた相手を直接殴り返せない
僕たちの社会では、自分を殴った相手を直接殴り返せないことから様々な悲劇が生まれる。
虐待されて育った子供が親を虐待できるか
学校でいじめられた子供が加害者をいじめ返せるか
職場でハラスメントを受け適切に対処されなかった被害者が加害者をハラスメントし返せるか
いずれも現実的ではないだろう。
それゆえ、人は自分と同じような境遇にいる人を救うことで、かつての自分を救いたいと思う。
これは、実際に誰かを救うこともれば、存在しない被害者を仕立てあげて他者を支配しようとする茶番にもなり得る。
一つだけ言えるのは、どの場合も、殴った方はいつまでもそのことを覚ていないということだけかもしれない。