純粋な悪という有害で魅力的な神話

ポール・ブルームの「反共感論」を読んでいたら

「フィクションにおける純粋な悪が存在するという描写は有害ですらある」

ということが書いてあった。
ブルーム本人の談ではなく、別の研究者の発言を引用したものだ。
 

なるほど、と思ったので、今日は純粋な悪がなぜ魅力的だが有害なのかを書きたい。
 

純粋悪の魅力

小説、漫画、映画では、読者や観客を満足させるための強烈なキャラクターをが必要だ。
ノンフィクションであっても、この目的のために、誇張した描写をしたり、登場人物に単純な役割を付与することがある。
 
「快楽殺人者」
「サイコバス」
「偏執狂」
「サディスト」
かくして、活字や映像には、このようなわかりやすい純粋悪が多く登場する。
 
純粋悪が物語に頻出するのは、善悪二元論・勧善懲悪なストーリーが人間の特性にマッチしているからだと考えている。
人間は、ものごとを確率的に評価することが苦手で、記号や印象をもとにヒューリスティック(経験則)に判断する傾向がある。
役柄が明確な純粋悪は物語の語り手にとっても読み手にとっても魅力的なのだ。

また、日々周囲の目を気にして葛藤を抱えながら生きている人間にとっては、他者の思惑から解放されている純粋悪は魅力的に見える。
「捕食者」として他者のことなど意にかけずに振るまいたいという欲求、
そこまで行かなくても、他者の抑圧から開放されたいという欲求は誰しも持っているだろう。
「サイコパス診断」のような企画があると「サイコパスの思考をトレースして自分はサイコパスだと見られたい!」という中二病的な欲求が出てくるという方も少なくないだろう。

(サイコパス診断:あなたはマンションのベランダから、隣の建物で男が別の男を刺し殺すのを目撃してしまった。あなたが見ていることに気がついた犯人は、あなたの方を人差し指で指差す動作を繰り返す。なぜだろう?(答えは最後に))

普通の人の脅威

だが実際には、羊たちの沈黙のレクター博士のようなサイコパスカニバリストや、北斗の拳のモヒカンのような暴力の化身にお目にかかることはまず無い。
日々の問題や世界の問題の多くは、純粋な悪人ではなく普通の人間によって作られるのだ

文章の細部やフォントといった重箱の隅をつつくような事柄を偉そうに指摘する同僚は、あなたを困らせようとするサディストではなく、時間をかけてでも体裁が美しい文書を作ったほうが良いと本気で思っているだけだ。

戦争が起こるのは攻撃者が快楽殺人鬼の集まりだからではなく、過去のトラブルや自国の置かれた状況を考えれば「相手はそうされても当然だ」という感情を共有しているためだ。

リアルでは、数が少ない純粋悪よりも普通の隣人の方がトラブルの素である。
そして自分と利害や価値観が対立しているだけの人を純粋悪と仮定してしまうと、いろいろ対処を間違える。

 
ハンニバルマスクカッコいい。

本の紹介

冒頭に挙げたもの。
著者のポール・ブルームはイェール大学の心理学者。学会の会長も務めた重鎮。
進化心理学や道徳心理学の本でよく出てくる、生後半年の赤ちゃんに、○△□が喧嘩や協力をするような映像を見せるとちゃんと理解できている、という実験が有名。

共感は対象に強烈なスポットライトをあて、属性間の断絶を強化する。
情動的共感に頼らなくても我々はたがいに配慮し合うことが出来る。
という内容。

例えば、若い勤務医の過重労働が問題になっているが、共感ではこれは解決できない。
医師の側に立つ人もいれば、病気の子供や病気の子を持つ人に「共感」し、過重労働は必要悪だと論じる人もいるからだ。
これを解決するには共感ではなく、過重労働による医師のパフォーマンスの低下と医療体制のスリム化の影響を比較検討する功利主義的な枠組みが必要だ。
(実態は、医師会が医学部医学科の定員を少なく維持して既得権を維持しようとしているしわ寄せが若手に来ているという構造的な問題なのかもしれないが。)

常々自分が考えていたことと近く面白かったが、心理学の本にしては実験の紹介が少なかった。

サイコパス診断の回答

僕を含めて一般人の回答:「次はお前だ!」というメッセージ
サイコパス的な回答:目撃者(あなた)を殺しに行くために部屋が何階か数えている。

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